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天神で生まれたショービジネス
名物座長・とまとママ率いる劇団「あんみつ姫」

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■「あんたは、とまとね」

1984年、西通りに誕生――。現在、親富孝通りの顔となっている劇場「あんみつ姫」の原点は西通りにあった。オープンして3カ月が経ったころ、当時19歳のとまとさんは友人と一緒に「あんみつ姫」へ面接に向かう。当時のママと会話し、「大学が夏休みに入るので明日から働けます!」と隣でやる気満々の友人のパワーに圧倒されながらも、翌日には友人と一緒に入団することとなる。

「とまと」という名前は当時のママが名付けた。「一緒に行った友人がアゴがしゃくれている子で、ママに『キュウリとナスどっちにする?』と聞かれた友人は、ナスは嫌だとキュウリを選んだんです。当時は食べ物の名前を付けるのが流行だった」ととまとさん。「イチゴ、しじみ、レモン、プリン、わかめ…海苔とかいましたね(笑)」。キュウリと命名された友人と偶然一緒にいたために「あんたは、とまとね」というママの一言で決まった。

19歳での入団から、3年の月日が経ち、21歳で4代目「ママ」になる。その後、「あんみつ姫」は、同劇場を経営する会社が持つ、営業不振になりつつあった店との合併で1988年に親富孝通りへ移転するが、1990年には「あんみつ姫」単独となり、再度、以前に入店していた西通りのビルへ戻る。幾度も移転を繰り返す。「ショーは妥協したくないが運営も大事」と経営とショークオリティーの狭間で揺れ始める。寝る暇が無いほどの多忙の日々を送っていたが、諸事情により、1991年に閉店。もう何もしないと思っていたという、とまとさんだが、以前店を構えていた場所は空きフロアのまま。また、再開の話がとまとさんの元へ舞い込む。閉店の翌年、西通りの同所で「あんみつ姫ピンクのとまと」としての再出発を決意した。

■ショービジネス確立への道

 「ここからが大変だった」――。スタッフ集めから始めなければならない。当時、ショーに出演していたのは8人。制作メンバーも含め、計15人での再スタートだった。「企画制作から衣装作りまで、何もかも最初から。現在、衣装部に所属するメンバーたちが当時、『ママが大変だろう』ということで、仕事が終わった後、勉強したいからとボランティアで手伝うようになってくれた」と振り返る。この瞬間に今日の華やかな衣装を手がける衣装部の原型が生まれた――。

オリジナルの楽曲、衣装、演出――。笑いを誘う得意のコミックショーを交えつつも、時には聞かせて魅せるショー展開は、狭い福岡でもショービジネスが成り立つということをまさに証明している。現在、ショーには11人が出演。そのほか、大道具、照明、楽曲制作、衣装、企画制作など計約50人が制作活動に携わるほどに成長している――。

この年、ママの人望で集まったボランティアメンバーで衣装部が発足する。翌年には衣装工房スタジオも開設した。こうやって一歩一歩、「あんみつ姫」の形が固まり始めた頃、ママはショーのスタイルを再考していく。

1994年、同ビルの上階へ「あんみつ姫」として移転すると同時に経営する会社から独立する。今後の方向性を考え、「レストランシアター」というスタイルの確立を目指し始める。「『ショー』『飲み物』『食べ物』の3本柱で行こう」。

そして「会場は誰でも入れる『劇場形式』へ」――。客席は当時としては珍しいひな壇にした。また、風俗営業のイメージを崩そうと広報活動も積極的に行っていくことに。情報誌や新聞には断られながらも「劇場です」と根気よく、何度も交渉を続けた。「イメージ」という手強い壁を崩したのは、それから3年後。「劇場」というスタイルが受け入れられ、取材依頼も舞い込み、広告も載せることに成功した。

見事、情報誌に載った「あんみつ姫」。新しい世代の客層がみるみる増えていき、好調の波に乗り始める。しかし、レストランシアターとうたい、料理に力を入れていたはずだったが、手付かずの料理が戻ってくる状態が続く。「劇場」スタイルの宣伝活動により、他店で食事をすませてくる客が目立つようになるという経営上での思わぬ誤算が生まれてくる。

このような形態の飲食店は通常、酒の付加価値としてショーがある。飲食代で採算を取っていくシステムだが、気づいたときには「あんみつ姫」はその逆、ショーが主体となっていた。

「ショーで採算を取らなければ…」。ショーの充実に全力を尽くし始める。ショーの専門の勉強は一切しておらず、作りながらの勉強だったというとまとさんだったが、ショー作りに試行錯誤していくうちに、会場には照明などの演出にも効果的な「高さ」が必要不可欠だと知り始める。経験と汗から学んだ結果、高さ、幅の条件を踏まえ、現在店を構える親富孝通りの場所にたどり着く。

■親富孝通りの顔へ

 「低料金を最初に実現したのも『あんみつ姫』」。オープン当初、中洲のクラブの相場は1人1~1万5千円。比較的安価な店舗でも5~6千円だったという。そんな中、「あんみつ姫」は、郡を抜いた低料金に設定する。男性=3,000円、女性=2,500円。さらに、「狭い福岡ではリピーターを増やさないと」という月替わりのショー内容はユニークで面白い。

開場中には、メンバーが各テーブルにつきトークや写真撮影を行う。個性豊かなメンバーの愉快なトークで観客を楽しませる。幕が開いても、ステージから各テーブルに声をかけるなど、観客参加型の演出も。幅広いジャンルの曲を使用し、ダンス、コントなど客は息つく暇もないほどの演出の変化が楽しめる。現在、公演は週6日、各日3公演を行う。

曲を聴いてイメージを膨らませ、衣装を考え、ショーが練られていく。だが、既存の曲とのイメージに悩み始め、自分の思い通りの曲を作りたいと楽曲制作部が誕生する。ママがイメージを伝え、曲が完成。すべて自分たちの手で作り上げていく。「発想の入口はたくさんある。こんな格好で鏡の中で踊りたい――など、業界のタブーを知らない、専門知識のない私の発想が自由過ぎて、担当者に迷惑をかけてますね(笑)」と笑う。

■誰でも参加の祭りで地域活性化

 福岡で生まれ、福岡で育ったとまとさん。「(そこに立つと)ああ福岡だな」と感じ、落ち着くという、旧岩田屋の付近が天神で一番好きな場所という。デザイン系の大学に進学するために予備校「福岡美術研究所(現福岡美術学院)」(中央区天神4)に通っていたというとまとさんは、学生の頃から天神や親富孝通りをよく利用していたという。現在、とまとさんは、ショーの企画制作のかたわら、愛着のある地域の活性化活動などにも積極的に参加している。

毎年、秋に福岡市役所前広場などで開催されている「ふくこいアジア祭り」。2000年より、開催されている同イベントに、あんみつ姫は毎年参加している。もともと、同イベントは「親富孝通りを盛り上げる祭りとして企画した」ととまとさん。イベントで行う、飛び入りでも参加可能な総踊りの楽曲や振りはとまとさんが担当。「地元の人はもちろん、誰でも参加できる祭りとして根付いていけば、すごい効果になるのでは」と期待を寄せる。

「他県に行くと、鹿児島や宮崎のCMを見かけるが福岡のCMはあまり見ない。福岡は、旅行者の通過点になっていることも。素通りさせないような魅力をもう少し出していければ。他県のように福岡も、県が一体となっていかないと」とも。親富孝通りの顔として、地元を愛する一人として、とまとさんは懸念する。

■「華」は自分で作るもの

 ショーの知識がない中、手探りで始めたというとまとさんだが、「だんだんショーについて勉強していくと、もっと見やすく、分かりやすい、より良いショーができる場所を探したいと思う。福岡は大きな劇場はあるものの、大阪や東京のように毎日通える小劇場がない。いつ行っても楽しめて、地元の人が運営している場所がない。映画と並ぶ、娯楽の選択肢の一つに『あんみつ姫』が入ればいいなぁ。そういう空間を作りたい」と語る。

「ショーで食べていくには面白いことをしていかなければ。男でも女でも面白いことをやって楽しませるが勝ち」――。

「案内地図に目印として「あんみつ姫」の文字を見つけると嬉しい。自己満足だけど」と笑う。

今や、「あんみつ姫」は福岡の観光名所の一つだ。固定劇場にも関らず、不動の人気を誇る劇場となった。華やかなステージの裏には苦労も多かった。「上京や、福岡を出ることは考えなかったのか」と問うと、「それもあった。入団3年目の時、ママになるか、上京するか…悩みましたね」と振り返る。「ついてくる従業員を置いていくこともできないし、行けなかったというか勇気がなかった」。「とまと」と命名した初代のママは、1985年の8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故で亡くなっている。「そのママが亡くなる前に『次はあんたがママね』と言ったんです。何のことか分からなかったが、その言葉も頭にあった」。

楽しませるためには妥協しない。とまとママの目には、時に厳しさも感じられる。「ショーに立つ人間は華がないとダメ。でも、――『華』は自分で作れるもの――」というとまとさんの言葉が印象的だった。

無いものは生み出す。例が無ければ自分が例を作ればいい。とまとママ率いる「あんみつ姫」はこれからも、天神のエンターテインメントの先駆者として走り続ける。


取材・文/編集部 秋吉真由美

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