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店舗出店激戦区・大名エリア
伝統を守り革新を続ける老舗醤油醸造メーカー

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■ 江戸時代に醤油・味噌を献上販売

 複合商業施設が集積する天神2丁目と大名エリアを区切る「西通り」。多種多様な路面店が並び、通りの先には北に「親富孝通り」、南に若者に人気が高まっている「今泉」が続き人の往来が絶えることがない。この「西通り」から大名エリアに入った鍵型の細い道の一角に「ジョーキュウ」(以下、同社)はある。「醤油」と書かれた暖簾をくぐってまず目に入るのは、1871年に建てられたという土蔵の白い壁と、その前にある日本庭園である。庭の隅には創業当時の井戸があり、夏には百日紅、秋には紅葉が色づき四季折々の顔を見せるという。また土蔵を正面に、右に仕込み蔵、左には明治初期に建築されたという住宅(現在は社長室)があり、通りの喧噪とはかけ離れた空間がある。


 同社の創業は1855年。両替商であった松村半次郎が独立し紺屋町(現大名地区)に「楠屋醤油」を創業し黒田藩御用達として醤油と味噌を献上販売を始めたのがはじまりである。 現在「大名」と呼ばれるエリアは、関ヶ原の戦いで戦功を収めた黒田長政が福岡城を築城し、現在の天神・大名・今泉などとともに城下町として整備したエリアで、当時、同エリアには黒田に従えてきた職人集団のほかに、戦がなくなったことで事実上働き場を失った武士が転職して商人や職人となりこの地に住居を構えていた。「博多」と「福岡」は混同されることがあるが、古代より貿易などが盛んな商都「博多」(現在の博多区ではなく那の津通りから国体通り付近)と、福岡藩(黒田藩)の城下町である福岡では「商い」の観点から見ると歩んできた歴史や気質は異なっているといわれている。
 こうした歴史を背景に創業した「楠屋醤油」は、藩に度々ご用金を納めるなかで家格が上がり城下町有数の町人となった。戊辰戦争の煽りや大火に見舞われもしたが、1907年には第4回全国五十二品評会で名誉賞を受賞し「宮内庁お買い上げ」となるまでに品質を高め、1910年、3代目・松村久吉が自分の名前の一部を使用し「上等」の意味も込めて屋号「上久」にした。大正時代になると様々な賞も受賞し活気あふれるなか、同社のシンボルとなる赤煉瓦煙突を築造、大正末期から昭和初期にかけて構築した仕込みタンク・桶は102本に上った。しかし第二次世界大戦の戦火は福岡空襲というかたちで同社にも及び、タンク・桶の大半を焼失した。その後、転機が訪れたのは1960年、高度成長期のなか添加物を一切加えない「昔ながら」の手づくり醤油「再仕込み醤油」の発売と、1970年からはじまった加工調味料分野への進出であった。

■ 再仕込み醤油という理念


 同社の原点である「醤油」の特徴は「濃い口」と言われる醤油である。4代目・半次郎が昭和にかけて作り続けていた「濃口醤油 最上」を復活させたいと考えたいたところ、1960年に同社の「再仕込み醤油」が3年連続、品評会で最高賞を受賞した。「再仕込み醤油」とは丸大豆と小麦を混ぜ合わせた麹のなかに、ふつうは塩水を入れるところを、一番しぼりのもろみ醤油を入れて再度熟成させた醤油で、味、香りともに芳醇で、「最上」とタイプが異なるが「極めて近い」という。同社では研究用と、自家用として少量だけ仕込んでいたが、受賞を機に商品化に踏み切った。「むらさき」と名付けられた同醤油は、900ミリリットル=350円で売りに出されたが、「まだ食を楽しむ時代でもなく、当時としては値段が高かった」(同社)ため売れなかった。しかし、半次郎はこの「再仕込み醤油」を作り続けた。「醤油屋が醸造をやめたら瓶詰め屋になってしまう。技術というものは一度消えてしまえば取り戻しができない。ジョーキュウの醤油造りの伝統と技術は何としても継承しなければならない」という思いがあったのだろうと、現社長はいう。1980年代、「むらさき」は「むらさきの根っこ」という意味で「紫根」という名に変更、ちょうど訪れた自然食品ブームの波に乗り、ジョーキュウ=自然食品というブランドイメージを確立させる。このイメージは「スローフード」や「食育」といったキーワードを持つ現在、若い世代にも広がりはじめている。

■ 商品アイテム約600種類 

 「ジョーキュウ」の名前は地元である福岡でも馴染み深いという訳ではない。醤油としては決して安くはない同社の商品は店頭、百貨店、高級スーパー、インターネットでの販売を主としているため一般家庭への認知度が低い。しかし、同社の商品はさまざまなところで口にしている可能性がある。
 現在、同社の商品別の売上構成比は醤油・味噌=30%、調味料=60%、その他=10%となっている。「再仕込み醤油」は大名にある本店で生産しているが、業務用商品のほとんどは1993年に前原市に建設した約2,000坪の前原工場で生産している。直接取引先は大手から街の食堂まで約1,200件、他に卸のルートなども持つ。商品は約10種類の醤油・味噌をはじめ、昆布醤油や煮付けのたれ、そばつゆ、あごだし、ドレッシング類などの調味料や、小袋製品などあわせると商品アイテムは約600種類にのぼる。この種類の豊富さの背景には飲食業界などからの新商品の開発依頼がある。
 同社が「調味料」の分野へと進出したのは1970年代、もともと醤油を納品していた大手うどんチェーン店からの依頼が始まりだった。当時、チェーン店への展開を考えていたうどん店では手作りの味と香りを生かしながらも、どの店でも同じ味が出せる安定感のある「だし」作りを工場生産できないものかと考えていた。相談を受けた同社は、味の標準化と原価の兼ね合い、また物流コストの利便や安全性、味と香りなど様々な側面から商品の追求を行い、1979年に業務用の「だし」を完成させた。1982年には大手弁当チェーン店とともに「うなぎのたれ」を開発。その後も有名企業の新商品の開発に携わり、業務用調味料の開発ノウハウを蓄積していく。また、同社は自社商品にも力を入れ「もつ鍋のたれ」はもつ鍋ブームにのってが全国に出荷され、郵便局のふるさと小包に採用された「大名ラーメン」も順調に売上げを伸ばした。そのほか「浅漬けのもと」や「あごだし」など現在でも定番の人
気商品を数多く抱えている。「脱・醤油」という大きな決断をした昭和を経て、同社は1989年3月3日、「手作りの技術」と「伝統の誠実」を理念に社名を「ジョーキュウ」に改めて平成を迎えた。

■ 原点に戻った「ジョーキュウ」が目指すもの

 2005年3月、同社は創業150周年を迎えた。記念事業として、仕込蔵の中にある直径・高さとも6尺の木桶「六尺桶」で「再仕込み醤油」を作り、瓶に明治末頃のラベルを貼って創業年1855年にちなんで限定1855本を販売した。また、松村冨夫社長は歴代の経営者がつけた帳簿などをもとに社史を自ら編さんした。冒頭で松村社長は「過去に何をしてきたかも大事だが、人は一体何を考えながら、その決断をしたのだろうか。その点に一番興味がある」と書いている。

 今後の展望について同社の松村等彰副社長は「いい伝統を継承しながら、安全で安心な商品づくりを行なっていく。見直されつつある日本古来の醤油・味噌の価値、さらに食育にちなんだ和風の良さをもっと追求し、当社にしか出来ない商品開発を進めたい」という。また、様々な苦境を乗り越えた同社がいまなお基盤としている大名エリアについて「お洒落で由緒ある街であるが、一過性の風潮に流されずにお客様が本当に何を求めているかをよく調べた上での出店を希望したい。また、この街を守っている大名・紺屋町商店街の人々の気持ちをよく理解していただければと思っている」と話している。
原点を見つめなおした「ジョーキュウ」は現在、もう一度食卓に日本の伝統の味である醤油と味噌が普及するように伝統を守り、「食育」をテーマにした商品開発に取り組んでいる。

ジョーキュウ

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